■「毒親」「親ガチャ」という言葉を捨てて、早急に止血する。
前回は団塊ジュニアとして生きた私の実体験も含めて、生きづらさの根幹にある問題について考えた回でした。
この問題について考える時に、どうしても私の中で月星座の「重鎮・山羊座」がしゃしゃり出て来る傾向にあるので(笑)、どうしても風の時代に合う「軽やかな感じ」にならないのが自分でも大変遺憾なのですけれども、
出来るだけそこは太陽星座の「天真爛漫・元気な牡羊座」にも登場して貰って、極力軽やかさを出していけたらいいんだけどなあ。と前回の反省から(笑)思っていたりします。
前回、私が大きく言いたかったのは
「毒親」っていうの、まずやめませんか。という話でした。勿論、特に現代では生まれながらに想像を絶する困難な境遇で生まれて育った子供たちがこの国にもいることを私は認識しています。
けれども、やっぱり、「選ぶことが出来なかった問題」について後から永遠にぐるぐるぐるぐる悩むのって、同時に非常に無意味だと思うのです。もうどうにもできないし、過去は取り戻せない。そこに対して弱者だった自分の恨み辛みが出てくる感情もとてもとてもよく分かるけれど、でもそこに執着しても、どうしたってひっくり返して取り返すことはできないのです。
そうであれば、考えるべきはここから先の未来にその負の感情を持ち込むことの弊害を認識することだと思います。終わったどうにもならない出来事に対して改めて悩むことで、これから先も大幅に幸福を棄損していくという負の連鎖を断ち切ることに集中する事かと思います。
はやく止血すること。
そして、
もう、私の幸せを壊させない!私が守る!
今までよく頑張ってくれたね。
と強く内側の自分へ誓って、ねぎらってあげる事です。そうすることで、内側の自分もようやく理解されたと感じて、希望を見出し、生命力をみるみる取り戻してくれます。まずはそこからかなと、思います。
それで、これまで後回しにしてきた内側が純粋に求めていることについて、合理的かどうかとか、関係なく聞いてあげる事です。
私の場合は「な、な、生牡蠣が食べたい…」という純粋無垢な内側の声を叶えてあげることにしたwという事になります(笑)
そこで、「そんなことしている場合じゃないでしょ、もっとやることあるでしょ!」と言ってくるのはこれまで「制御係」をやってきた内部役員の声で、その人の声はこれまでもずっとずっと聞いてきたわけですから、一旦ここではお休みして貰うことにするのです。
そうすることで、私の人生はだいぶ流れの滞りが無くなってきて、水(血液?)も透き通ってきた感じがしています。(体感)
■子どもから親への愛情と親から子供への愛情の根本的な違い
さて、最近になって、同世代で独身子なしという、私とはまた別のテーマの人生を生きる友人に、ふとこんな質問をされました。
「子供の愛情と親の愛情って、やっぱり違うと感じる?」
彼女もまた、ひとりっ子長女にもかかわらず「独身子なし人生」を選んだというところで、両親との間に非常に大きな葛藤をもって生き続けた団塊ジュニアのひとりでした。
ひとりっ子だったことで、両親からの期待を一身に背負い、これまでの人生をなんとか生きてきた女性です。大人になってから両親との間に一線を置いて暮らし始めたものの、引き続き強い干渉と受け入れがたい教育指導のような小言を40歳を越えても言われ続け、とても疲弊していました。
気持ちは分かりますよね、もう我々は成人して久しい「熟年」なのです。それに、これまでだって一生懸命真剣に考えて選び、生きてきた。
その上、彼女の中では自分が家系の墓を畳むことになる運命を導いてしまったという事に対して、とても大きな負の感情を持ってもいました。
私は、たまたまですが彼女と同じ時代に生き、価値観の同じような団塊世代の両親がいて、一方でZ世代の娘をもっているので、「子供の立場」と「親の立場」を両方体験していました。ですから、そこにはとても大きな違いがあることもはっきりと認識していました。
■子供の親に対する愛情はひたむきで真っすぐな無償の愛
先に簡単に説明するとするなら、まず子供の親に対する愛こそ「無償の愛」です。特に小さい頃の子どもというのは親が喜ぶ顔が見たくて、親を幸せにしたくて、色んなことをしようとします。それが子どもが叶えたいことのひとつでもあります。損得勘定などないひたむきで真っすぐな愛情です。
そのひたむきさというのは、成長して親の言う事を聞かなくなったり、へそを曲げても、根っこの部分でず~っと残っていて、親にどんなに否定され、罵倒されて育っても、その願いが叶うまで「いつか親に愛され、誇らしく思って貰える子供に自分がなれるように」という気持ちをもって生きてしまいがちになる程、センチメンタルな側面がある気がしています。
育った環境によるのかもしれませんが、カキコ個人の歴史を子供の立場で振り返って思うと、報われない相手へひたすら片思いし続ける感じに近かったな、という感想を持ちます。
小さい頃にその願いが一定の達成を遂げられた子はよく「自己肯定感のある子供」なんて最近は言われたりします。ちなみに私は、この言葉は「解るけどあんまり好きじゃない言葉」です。多分私がそっち側ではなかったからというヒガミもきっとあるのですが(笑)、ほんとうの自己肯定感なんてもんは与えてもらうものじゃないと思うからです。
親との関係性で願いが叶わないまま大人になってしまった子を今度は「自己肯定感が希薄」なんて言って、それこそ諸悪の根源を抱えているような言い方でまとめてあるものも多く、もうどうにもならないことが原因でそうなっている自分に、改めて絶望感を抱かされる人々をたくさん産出している現実がある気がします。
遺憾です(笑)
いま、そういう段階にいらっしゃる人には、私がとても勇気づけられた言葉をいくつか。
→もはや私の問題ではない
今の私が思うに、「自己肯定感」というものは幸運な環境下で育ったものだけが与えられる先天的なものではなくて、最終的には自分自身で築くものだと思っています。自分の首にメダルをかけられるのはいつも自分だけ、という事です。親でも、社会でも、国家でもないという事です。
もちろん特に幼少期にはそこまでの体系的な考えに至らないことから親の影響を背負う時間も多くあるとは思いますが、もう成人した大人ならば、そこからはなるべく早くとっとと脱皮するのが大事かなと思います。(なかなか感情面で難しいのですが)
ないなら今からつくっちゃえ。
前提条件がどこからのスタートであっても、私たちは本来自分に与えられた課題とそこへ立ち向かった経緯を通して、自分のメダルを作り上げられるし、それを自分の首にかけてやることも出来ます。前提条件が恵まれた人にはそういう色の、恵まれなかった人にはそれとは違う輝きを放つ色をした、どちらも素晴らしい特別な無二のものになるだろうと思います。
ここで大事なのはとにかく「無二のメダル」を自分の力でつくることだと思います。
私は離婚してからのこの10年で、100個くらいは自分の首にかけてやりましたw
物質世界に居ると、基本的に「再現性のあるもの」が商品として売れ、お金になります。ですから価値判断を私たちはたびたび誤認して、間違えることになるのだと思います。けれども自身の幸福を考えた時に、本当に価値的なものは「再現性のないもの」だと分かると、無二のメダルをせっせとつくるために自身が生まれてきたのだと分かると思います。
アンドリュー・カーネギーさんも貧しい生い立ちを持った子供には、かけがえのない宝物を与えられていると語っています。どっちが優れてるどうのではなくって、恵まれていようがなかろうが、無二のメダルをつくるための特別な素材を与えられているということだと私は思うわけです。
■親の子供に対する愛情は、人生経験の反省と彼らの想像する「幸福のカタチ」が入ってくる
さて、一方で親から子供への愛ってどうなんでしょう?今度は私は「自分の親」が私を育てた立場の目線と、「私が親として」子供を育ててきた立場での目線の共通項や傾向を見ていくことになります。
現時点で分かったことは2つです。
②①の実現のために自分の過去の人生の反省や自分の考える「幸せのカタチ」を実現するための価値観が介入してくる傾向にある
親だって、子供のことは大事に思っていて、幸せになって欲しいと何よりも強く望んでいます。ここまではよかった(笑)。
但し、そこに②の要素が入ってくることで、おそらく色々な問題が起こってくるのです。
私がこれに気づくことが出来たのは、昨年、娘の不登校問題という大きなきっかけが天から降ってきたことが非常に大きいです。
■子供の不登校問題で気づいた私自身の中の未解決親子問題
離婚でも不登校でもそうですが、問題の本質が見えない人々は、「問題の原因」について早々に回答を引き出そうとします。離婚の時には面白い現象があって、「離婚経験者は決して離婚原因をたずねてこない」というものがありました。
経験者にはそれがたった一つの原因で起こることではない、そして聞いたところで本人の新しいスタートに対して何の力にもならないという事を自分の経験からご存じだったのだと感じました。
娘の不登校の場面では、全員ではありませんが保身に走る必要がある立場の人であればあるほど、親である私たち元夫婦の離婚であったり、シングルマザーの私の教育であったり、娘本人の弱さであったりと、そうした表面的な分かりやすい事実を根拠もなくピックアップして「原因」だとしようとする傾向にありました。
私自身も、序盤はそういう一般的に指摘されるようなことがきっと原因だったに違いないと信じている時期がありました。けれども徐々に問題の根幹が見えてくるにしたがって、それは単に物事を早く決着をつけたい、何か原因や理由を見つけたいという大人の本能的な欲求から出て来る現象だと気づきました。
何か理由をはっきりさせて、
一刻も早く不安定な状態を抜けて着地したい。
そんな感じです。
けれども、問題はもっともっとずっと奥の方にあって、子供はその問題を通して、当たり前の結果を表面化させてきていただけでした。
子供の中に芽生えた当然の「違和感」からの現象であって、それは電気を消せば部屋が暗くなるとか、そういうのと同じだったのでした。
子供が抱えていた「違和感」は特に親世代の「幸せのカタチ」と自分の「幸せのカタチ」の間に生じた埋められない溝や大きな価値観の乖離、そこへの不安や恐怖、自分は親の期待にも応えられないし幸せにすることもできない無力な存在であるという絶望感からくるものだったと私自身は認識しています。
これは私自身が私の親に対して40年以上抱いていた感情とほとんど同じものでした。
娘の不登校までの経緯で、最も影響力が大きかったものが、娘自身の問題以上にひとつ上の親子関係、つまりは「私自身」と「親世代」の親子としての関係に棚上げし続けた未解決の問題(感情の膿)があったという事がとても大きな驚きでした。娘はおそらくは未だに気づいていませんが、私にはその構造がある時からとてもよく理解できるようになりました。
ココが未解決のままであったことが、娘にとても大きなダメージを与えることになっていたという構図です。
私の場合は、家系全体が連鎖で繰り返し抱えてきたであろう問題に気づいたことが、この問題のターニングポイントとなりました。
ここから娘に光を取り戻す方向性へ一気に向かっていくことになったので、お子さんの不登校でお悩みの方は一度、問題は子供の側にはないかもしれないという観点で外側を見直してみる視点が、もしかすると突破口になるかもしれません。
■癒えていない団塊ジュニア、子供はさらに大きなダメージを受ける
2020年の段階で、私の娘が「不登校児」になったという事実は、世間からするとまだ完全に「マイノリティ」でした。でも、この問題について構造がかなり明確に理解できた今、今後子供の不登校の問題はきっと、私が出産して数年後に訪れた待機児童問題やワンオペ問題、児童虐待・ネグレクトの激化と同様に、年々増えていくだろうなという気が私はしています。
何故そう思うかというと、私と同じ団塊ジュニア世代の友人や少し上の世代も含めた現役子育て世代の人たちの中で、肉親との間に問題を抱えている人があまりにも多い、ということからです。そして、団塊ジュニア世代は自分の経済を回すのにも未だに苦戦中。さらにはコロナで世界も激変のタイミング。精神的・肉体的な疲弊度がかなり高いまま同時進行で子育てに突入しているからです。
一部は親の影響に気づかずに自己価値を完全に見失っていたり、あるいは逆に育ててくれた肉親に対して非常に深い積年の恨みを抱え込んで生きつづけているという現実があります。本当に不思議なくらい、多くの団塊ジュニア世代が親と絶縁しそうな状況にあります。
この状況で、最もダメージを受けるのは誰か?
そこについて、真剣に考える必要があります。私は娘の不登校を通して、両親との間の先送りにし続けてきた「膿」を「今」解決しなければならないんだという必要に迫られました。逆に言えば、幸運なことにそのきっかけを娘に与えてもらいました。
娘の問題がなければ、墓場まで持っていくつもりだったモノと向き合って、清算をする覚悟をしたのです。これは娘の問題がなければ掘り起こすこともなかったはずのものでした。私自身はこの問題はもう人生で解決をしなくていい、と悔いを承知で諦めていたものでもあったので、なんだか、本当に人生というものはよくできているんだなあとも思いました。
そう考えると、本当にいつも天から降ってくる難題は「もっとあなたは幸せになれる!」っていう祈りが込められた「希望の種」なんだと感じます。
団塊ジュニアの役目、それはあらゆる「負の連鎖をここで断ち切る」という事だと私は思っています。そう考えると、まさに現在の破壊と再生を司る「山羊座冥王星時代」のキーパーソンは団塊ジュニアなのかもしれません。(主観)
無事に役目を果たし、自分にメダルをかけてやって死ねるように、私も生牡蠣バシバシ喰って(笑)、善処したいかと思います。
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