第2話 生牡蠣の美味しさに忖度なし、健やかさこそが幸福を享受する資格

岩カキコのエッセイ

■生牡蠣の美味しさに忖度はない

やや日常が煩雑だったために少し時間があいてしまいました。

昨年のコロナ開始から現在までにこれまた人生でも滅多に起こらないレベルのドラマチックな出来事がたくさん起こり、なんて私の人生はいつもいつも安寧と程遠いのであろうかと我ながら改めて痛感した次第であります。

 

ただですね、私が自分の人生で一番欲しいものは「感動」「思い出」なのだと、もはや10年前の東日本大震災とその後の離婚の段階で私には分かっていたので、これはむしろ、私のその欲望のために用意されたシナリオなのだなと大人になってからよく思うこととなりました。

 

ですから、全ては命を懸けて
その宝を手に入れるための道程に過ぎません。
まばゆい無二の時間のため
それを受け取ることが出来る自分になるための過程です。

 

これまでの人生の困難の中でいくつか心に残る言葉というものがあるわけですが、近年の私の中では黒柳徹子さんのお母様で作家の黒柳朝さんの言葉にじわじわと勇気を与えられ続けている感じがしています。

 

素晴らしいものはみんなタダ。

 

 

黒柳朝さんの著作である『バァバよ 大志をいだけ』の中に出て来る一文です。空気や太陽や青空、季節、私たちが当然のように毎日受け取っているものが、誰に対しても分け隔てなく等しく与えられている最上級の無償の愛であると言うような印象を覚えました。

 

苦しい時間というのは、特にこの言葉を強く浸透させてくれます。

 

数々の「限界」に遭遇して、今ではどうやってその一つ一つを消化してきたのか、私ももうよく覚えていませんが(笑)、そうして自分に与えられた困難を越えていくうちに、その困難で遭遇した人々に対して、自分はこういう人間だけにはなりたくないとか、こういう素晴らしい人にいつかきっとなりたいとか、そういうものがどんどん明確になってきている気がします。

 

とすれば、どちらの極にいる人たちも、結局自分の豊かさがどこに収まるのがいいかを教えてくれたと言いましょうか、私の軸を豊かさへ導いていくために貢献してくれた尊い人々、だったのだと、過ぎてみれば思うことが出来ます。

 

 

とはいえ、それは過ぎてしまった今でこそ思う事であって、当時は、もっとも忌み嫌う人間に「相手によって態度を変え、自己保身のためにしかならない誤魔化しを繰り返す人」という許しがたい人が私の生活圏内には居ました。

 

その人から日々注がれる毒素をなんとか消化するために、私はたびたび生牡蠣を食べに行きました。その時にとても強く感じたことは「生牡蠣はなんて誰にでも等しく平等に美味しくいてくれるのだろう」という事でした。

 

これは前述した黒柳朝さんの「素晴らしいものはみんなタダ。」に通づるもののような気がしました。

 

もちろん、大富豪は高級で希少な生牡蠣を季節外にも食することが出来るのかもしれませんが、目の前にある生牡蠣は私に食べられようと100億円稼いでいる人の口に入ろうと、その美味しさを瞬時に変えることはありません。

 

生ガキ人格者!

 

 

私は生牡蠣のような人間になりたい!
そう心で叫んで、翌日も会社に出社していたのを記憶しています。そんな高い志を持って働いていたからかどうかは分かりませんが、私のそのステージの課題は間もなく終わりを遂げました。

こうして、いくつもの困難の中で、いつもそっと生牡蠣が居てくれたことを私は何よりもの幸福だったと考えています。いつも私のために美味しくいてくれた生牡蠣に感謝でいっぱいです。

 

■生牡蠣の美味しさを享受できるのは健やかさあってこそ

私は前世がラッコじゃないかと思うほどの貝類好きで、どれだけたくさんの生牡蠣を食べても、今まで「あたった」という事がありません。

 

けれども2度、牡蠣を美味しく食べられなかった日という歴史的な日がこれまでありました。そのいずれも体調のすぐれない状態で、だけど約束を断ることが出来なかった日に起こりました。

 

「カキコちゃんが牡蠣好きだから!」という理由でお誘いを受けた約束だった手前、ひとつ目の牡蠣は食べましたが、次の牡蠣を目の前にしても、全く食欲がわかないという異常事態でした。

 

自分でも信じられないくらい、
食欲のわかない日でした。

 

どんなに素晴らしいものも、自分自身が健やかさを保っていなければ、その価値は全く意味が無くなってしまうと言う事を体験しました。

 

ストレスで怒っていたり、むしゃくしゃしているのはまだマシで、それはエネルギーがあってこそできることなので、多分まだ「元気のうち」なのだと思います。

 

会社で嫌なことがあった日の帰りの生牡蠣は100倍くらい美味しい気がするという現象もあるので(笑)、負の感情はそういう利用と発散の仕方がとても有益に思えます。

 

けれども、色々な不安な日々や困難が長く続くと、人は「長生きしても無駄」と思い始め、自分自身を大事にしないことが日常化していきます。それが末期的な状態になった状態がセルフネグレクトとして現代では社会問題化もしていますが、そうなるときっと、自分自身に牡蠣を食べさせてあげる意欲すらわかなくなってしまうのだろうと思います。

 

しあわせを感じるには、何よりもまず自分を健やかに保つこと。

 

そして、そういう感性は大事にしてあげる自分への優しさから生まれる気がいたします。

 

長生きしたいから、は意味がよく分からなくても、「美味しい牡蠣食べ続けたいから!」という意味で、心身の健康に十分気を付けて、息を引き取るその瞬間まで一心同体で自分を見つめ続けてくれている自分自身を誰よりも信じ、愛し、いたわってあげましょう。

牡蠣も私たちに愛を注いでくれます。

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