第5話 団塊ジュニアが生きづらさを感じる理由を改めて考えてみた

岩カキコのエッセイ

■「地の時代最終章」という最も過酷な10年を終えた団塊ジュニアとしての雑感

団塊ジュニア世代岩カキコはついに離婚10周年&宇宙元旦とされる3月20日の春分の日を目前に控え、まだまだココからですよ!という声もあるのかもしれませんが、人生で一番の働き盛りという10年間も同時に終わったな、ようやく。という心境で一旦います。

 

 

それは地の時代として最後の2020年が、春分の日の到来をもって本当に本当に終わる、という意味でもありますし、

 

娘が昨年起こした発作のような不登校という問題が、2021年になってそれなりの出口に出られたことと、その問題と向き合った昨年、私の中のシステムが強制的なアップデートを迫られていたわけなのですが、どうもそれも、ここ最近完了した感覚があるからです。

 

やれやれっスよ(笑)

 

で。昨年までの10年間は、何度も言うように私の社会人生活全体の中でも最も過酷な時代となったわけですけれども、

 

ここ2年ほどでキョーレツに思ったことは、それはどうやら私が離婚して子供を引き取ってシングルマザーとして生きていたから、という理由からだけではなかったらしいという事でした。この10年は私と同じ団塊ジュニア世代にとって、かなりキツイ心の筋トレ10年間だったようだという諸々の小話が、不思議とここ数年、実際に多く入ってくるようにもなりました。

 

 

■団塊ジュニアの社会人時代がすべからくキツかった理由

団塊ジュニア世代が社会人として生きてきたこの10年間のさらに前の10年もそこそこ厳しくて、2000年以降の20年、つまり過去の社会人時代全体の何がキツかったか?と考えた時に、今だから思う雑感はこんな感じです。

 

●先の時代の具体的ヴィジョンがほとんど見えていなかった
●見えない事に対して若い時代には危機感も抱いていなかった
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●結果、次々現れる変化の時代が始まっても、古い価値観のしがらみと執着からその適応だけで大半のエネルギーを消耗し、かつ消耗相応の対価を得られないという、転びまくる連鎖を重ねることになった
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●時代に振り落とされないようについていくために、時間と労働の過剰投下という根性論でしか生き残るための利益を確保できない時代が全体で続いた。

 

これはひとりひとりというより、振り返れば、それ以前に国家や企業がそもそもそうだったと感じます。でも、結局のところ、その局面でまだ最も若い労働者であったお人よし団塊ジュニアが「NO」を言わ(言え)なかったことで、やり方(戦い方)としてギリ機能してしまったところがあったのだと思います。

 


画像:amazon

 

そしてどんなに消耗しても日本のデフレ不況が根本的に回復することはなく、結局30年も続いた経済状況で、国家も企業も余力を失い、若手の働き手だった団塊ジュニアは新卒から中堅になるここまでの約20年間を魂をすり減らして生きました。

 

その間、未来への夢やフリルを、海のサンゴと同じような感じで、あっという間に根絶されるような過酷な時代を生きて、戦争もないのに多くの若者が未来に絶望し、死の淵を見、何人かは生き続ける苦しさを最後の力を振り絞って止めました。

 

 

生きるか死ぬかの闘いを
みんなしてきました。

 

何となくですが、ここはあくまで主観になりますけれども、若くして徴兵されて戦死していった人々と、根本的には変わらない精神論があった気がしています。当然ですが、強制的に徴兵されて大多数が命を落とした戦時中と、まだ「選べる余地」があった我々団塊ジュニア世代では、その代償の大きさには比べようもないほどの違いはあります。

 

 

しかし、国家のため、企業のため、家族を守るため、さらにその最も下層の根深い部分に子供として親の期待に応えたい、理想的な娘・息子でありたいという気持ちがあって、魂を差し出し続けたという根本的な構造にはどこかとても近い何かがあったと私個人的には思っています。

 

敵がどこにいるのか分からない戦争を
私たちはしていました。

 

念のため補足するならば、これらの考えは私に愛国心がないからではなくて、どちらかというと私は国民の祝日や元旦には街で国旗掲げて欲しいと思う方ですし、靖国神社へも参拝に行きます。

 

 

先の戦争に対して「若者よ、国家のために騙されて命を落とすな」的な見解には正直、かなり大きな違和感を覚える方でもあります。なぜなら、そのような意見が一般庶民である私の耳にも届く形で存在する国家と時代を実現させた功績や、女子供が安全に生き残れる国家を残したのはその戦争だったと思うからです。

 

ただ、世界の各国家という単位自体の存続やその境が今後、地球上でのよりよい社会の実現のために変化すべきかもしれない可能性については少しだけ感じるものもあったりします。

 

 

もしかしたらこの10年、他の世代も別の意味で過酷な側面があったのかもしれませんが、私が仕事や私生活で交流ある各世代を見ている限りでは、その過酷な10年を経て、今最も重要な局面に居るのは明らかに団塊ジュニア世代という印象がしました。この世代は完全に今後採用する自分の内部の価値観を選ばなければならない側面に「今」立っているからです。

 

 

私の弟と同じ「さとり世代」組も、今後同じような岐路にいずれ差し掛かる未来があるのかもしれませんし、少し生きづらさのルーツに気づいている人々も出てきていますが、まだ年齢と経験の関係で問題の重要性と根っこに気づいている人は多くはなく、

 

それこそ10年前の団塊ジュニアたちがそうだったように、まだ体系的に社会と自分、未来への矢印という段階にまで咀嚼できている人は稀有のような印象です。

 

ひたすらがむしゃらに働いて転んで野心で立ち上がるというステージをなぞっているようなところがあると感じます。でも、彼らが恵まれているなと思うのは、これまでもそうだったように団塊ジュニアの選択の結果を見て、自分の決断を選ぶ時間的余地がまだあることかと思われます。

 

 

また、彼らには自我が芽生えたころにはインターネットも携帯電話の文化もありました。ですから、彼らには団塊ジュニアほど多くの馴染みある価値観を捨てるという選択肢は元々なくて、未来に適した価値観と感覚の1拓である可能性もあるのかもしれません。

 

 

彼らも徐々に子育てがスタートし始めているので、いずれにしてもなるべく早く、私がこの10年に見てきたこととそこから覚知できたこと、選択したことについてをシェアしておきたいなと感じました。

 

■時代と時代の価値観の狭間にいる2021年。今後、幸福感と自分の人生を歩むための課題5つ

とはいえ、2021年は引き続き山羊座冥王星の破壊と再生の最終章、コロナウィルスから始まったかなり強制的な時代の価値観のチェンジパラダイムシフトが急激に進んでもいるので、「さとり世代」「Z世代」が最前線で立ち向かうであろう、ここからの10年の工程はだいぶ団塊ジュニアが体験したものとはまた別のものとなるかとも思います。

 

 

でも何と言うか、少なくとも「さとり世代」「Z世代」に関しては、最後に人生をかけてクリアしていかなければならない(クリアしておいた方がいいと思われる)問題の核心はおそらく時代や価値観が急激に変わってもたぶん団塊ジュニアのソレと同じである気がしています。

 

 

■団塊ジュニアが人生と幸福感を取り戻すための課題の根幹に無意識の依存。

先に結論からいうと、その問題の核心部から主に以下の5つの課題を私は考えました。

 

1.「地の時代」の価値観から逃れられない親世代との関係の見直しと再構築
2.親と自分の間の「感情の本質的浄化」(自分の内部だけでも)
3.壊滅的な攻撃を出来る者(親)から、自分の魂を守ることが出来る自分への「自信と信頼の再構築」と「自己価値の見直し」
4.「自分の人生を生きる」、「自分の命を注ぐ場所を選ぶ」
5.1~4を踏まえ、自分が「親の立場」「上の世代」としてどのように子供や下の世代を導くか、「家系で引き継がれ続ける負の連鎖」をどう断ち切るか

 

ということです。それほど、団塊ジュニアとその上の世代の「生きた時代の間」には同じ時間の中であっても大変大きな価値観の溝があるという事です。けれども、前世代の価値観の元で教育され、前世代の大人たちの作った社会の中で生きることを迫られた団塊ジュニアは、前世代の価値観を自分の価値観の中に完全に引きずって生きてきています。

 

つまり、簡単に言うと

「自立がまだ果たせていない」

「自活」ではなくて、自分の人生の舵を自分の手の中に持っているという「自立」です。

 

 

価値観の中で、自分に必要なものと必要でないものの選別、要らない価値観への訣別がきちんと果たせていなかったことが、団塊ジュニアのこれまでの生きづらさに繋がっていたのだと私自身は自分の体験も振り返って確信しています。

 

ここを受け入れて、乗り越えない限り、団塊ジュニアが恨みつらみの呪いの負の連鎖から抜け出すことは不可能だと思います。

 

「毒親」とか言って、人のせいにしている場合ではない。そこを着地点にしたところで、私たちに幸福はないから。

 

私も正直、40も過ぎて自分で稼いで子供も育てているのに「自立していない」なんて到底受け入れがたいことだったのですけれども、自分でゆっくりと段階を踏んで考えていった結果はこれでした。特に私の場合は父親の考えから自立が出来ていなかったという事実に気づくことが出来ました。

 

 

この期に及んで彼の娘として、「理想の娘でありたい」という気持ちを、自分の本当の意思や考え、もっと言うと我が子の気持ちよりも優先して生きていたのです。無意識に。それは紛れもなく依存であり、私が自立が果たせていない何よりもの証拠でした。

 

 

愛している人の言葉であっても、受け取らないという選択。受け取らない=愛していないではないということ。

 

ちょっと長くなってしまったので、続きは次回に。

 

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