第3話 大好きだったJJとの最後の晩餐が生牡蠣だった話。

岩カキコのエッセイ

■同じ美術大学出身の先輩エリートデザイナーJJが死んだ

2015年12月、私にとって大事な人生の登場人物の1人だったJJという男性が他界した。交わした最後のメッセンジャーは前年9月。

 

きっとその頃には相応の症状があったと思うのだけれど、JJは最初から最後まで私にはそんな姿は1ミリも見せずに元気でユニークな印象のままこの世を去っていった。

JJが去った11月末の東京は銀杏が黄金色に輝きはじめて、青い青い透き通った空とのコントラストが1年で最も綺麗な季節だった。

それからというもの、毎年毎年、銀杏の木にJJとのお別れがあったことを思い出させてもらっている。

 

 

葬儀でたまたま、一緒によく3人で遊んでいたKさんと再会をし、JJが鬱病との闘病の末、亡くなったことを知った。ものすごくものすごく意外だった。同時に、「意外」だと思う自分に深い失望感を抱いていた。

 

大好きだったのに、
私は何も見えていなかった。

 

約1年前にあたる前年には前述のとおり、彼から直接メッセンジャーもあって、さらにその前年か前前年には私たちは二人で最後の食事をしていたのだった。それが最後になるとも知らないで。

 

私の離婚後に最初に食事に誘ってくれたのも、考えてみればJJだった。彼がこの世にいなくなったという事、それは今世で共有できる時間のすべてを、私たちはもう使い切ってしまったという事でもあった。

 

とにかくその、「もうない」という事実がとてつもなくツラかった。

 

デザイナーとしてエリートだったJJは大手企業ともコラボをする企画をいくつもするような、美大卒業生としては数少ない「成功者」だったと思う。単なる仕事の成功者ではなくて、私と食事をする時にも奥さんやお子さんたちの話がたくさん出てきて、家族もとても円満なのが分かった。たくさんの富を持っていたように私には見えた。

 

 

大学の同級生と結婚したJJは奥さんと若い時代の苦楽を共にし、最後に会った頃には子どもたちも同じ大学に進学できたんだよ、なんて言って、とても誇りに思っていた。

 

 

私は美術大学を卒業したことなんか家族から一切褒められたこともないし、「血銭をドブに捨てさせられた」みたいな言い方をされることが多かったのだけれど、同じ大学を大切に思って、家族みんなで誇りに思っているなんて、本当に素敵なことだと憧れたものだった。あんな家族の元で生きていたかったと何度思ったかしれない。

 

それなのに、そんなたくさんの富を見えなくしてしまう病気、それが鬱病なのかもしれない。あるいは、JJは私が知らないところで、大きな葛藤を抱えて、苦しんで生きていたのかもしれない。本当に、最後にメッセンジャーを私にくれたあたりに、どうして私はJJに「久しぶりに会おうよ!」と言わなかったのか。

 

 

それで事実が劇的に変わったとは思わないけれど、小さくでも、歯車をずらすことが出来たのではないかと、この5年間、毎年毎年同じことを考えてきた気がする。

 

まるで、映画の『バタフライエフェクト』のような話だ。

 


画像:『バタフライエフェクト』予告編

 

この話をこれ以上考えていくと、私にしか意味がない時間になってしまうから、今回はその方向性はここでストップしようと思う。

 

■JJと共に過ごした最後の時間、最後の晩餐が生牡蠣だった。

何かの運命というべきか、それともそれだけ既に私が牡蠣好きだったからという確率の問題なのか?JJとの最後の晩餐はオイスターバーで食べた生牡蠣だった。

 


2014年頃撮影

 

色々な地域の生牡蠣があって、私が生牡蠣を大好きであることを知っていたJJが予約をし、全国の色々な地域の生牡蠣をたくさん食べさせてくれた。

JJと私は同じ美術大学の先輩後輩ではあったけれども、年齢は亡くなった当時56歳だったから私よりも17歳も年上で、大学で交流があったわけではない。私がJJに出会ったのは新卒当時、まだWEBデザイナーになりたいな、くらいの淡い思いで営業職をやっていた頃だった。

 

私の新卒時代、社会人としての波乱の人生の幕開けについてはココでも話した通りで、本当に順風満帆とは縁のない不穏な幕開けだった。そんな時にいつもユニークな助言をくれて励まして応援してくれていたのがほかでもないJJだった。

 

JJは私が彼と同じ大学卒業だという事を知って、ほとんどそれだけの理由で長い間、妹のように可愛がってくれた。私にとっては人生で最初に苦しかった時代に光を差し込んでくれたような存在だったのだ。

 

とにかくJJと私とKさんは、当時、週2くらいで落ち合っては夜な夜な深夜までバカ騒ぎして遊んで、飲んで、食べて歌って、冗談を言って、今思うと夢のような青春第二章のような時間を過ごしていた。

 

売れっ子デザイナーのJJと照明デザイナーとして同じく有名だったKさんに、仕事もすぐに無くなった子供みたいな私が遊んでもらっていたわけだけれど、そこには不思議と全然上下関係はなくて(今思えば、JJKさんの大人の男としての器の大きさだったと思う)本当に、最初から最後まで人間として可愛がってもらったという記憶として今でも残っている。

 

そんな時間も、
私が結婚したと同時に一度ピタッと連絡が無くなった。

 

JJKさんなりの大人の配慮だったのだと思うのだけれど、だから、私たちには以前にも一度、「7年間の別れ」があったのだと思う。私も、連絡をよこさないJJの気持ちが分かっていたから、結婚生活がかなり苦しくなった段階でも自分から慰めを求めに連絡することはなかった。

 

そして、離婚後最初にそれを報告しておち会った時に

「おめでとう。おかえりなさい。」

と笑ってただ一言、言ってくれた。

 

私の離婚劇は色々それはそれは当事者以外にも家庭内がオオモメで、肉親である父親にも「お前がそこまでバカだと思わなかった」くらいにコテンパンに責められ、それでも子連れで路頭に迷うよりはという事で、頭を下げて実家に出戻るという本当に自己価値が失墜するような経験をしていたわけで。

 

 

そんな世界のすべてが敵だらけに思えた頃、JJだけは世界でただ一人、それを「おめでとう。おかえりなさい。」と言って、迎えてくれたのだった。私にとっては、私という人間の判断を信じてくれていたかけがえのない人、それがJJだったと思う。

 


2014年頃撮影

 

だから、生牡蠣を食べると、たまにJJと一緒に牡蠣を食べた時間が蘇ってきて、年甲斐もなくキュンとすることがある。

「ほんとうにすきだよねえ。。」

半分呆れたような顔で、私が生牡蠣を嬉しそうに食べてほっぺたをぱちぱちする姿を見ていた。もう私を見つめてくれることはない瞳を、私は今でも何度も思い出している。

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